要旨・序論

前方後円墳に見る支配の痕跡 -付加構築仮説による再解釈-
【要旨】

本稿は、日本列島における古墳時代の象徴的墳墓形式である前方後円墳について、従来の「中央計画的墳墓論」に異議を唱え、独自の「付加構築仮説」を提示するものである。 この仮説は、既存の方墳や円墳に対して中央政権が構造を“付加”することで、視覚的に支配を表現・上書きしたという視点に立つ。

墳丘構造の不整合、副葬品の年代ズレ、築造技術の相違などを手がかりに、前方後円墳が一度で完成された統一設計ではなく、政治的動態の中で編集・再構成された“支配の痕跡”であると再解釈する。

また、日本文化における「足すこと」を美徳とする価値観を補助線とし、古墳という物質文化の中に重層的な権力構造を読み取る視点を提起する。 本稿は、前方後円墳を「完成された国家の象徴」ではなく、「未完成な支配の記録」として捉える試みである。

【序論】

本稿の出発点は、ひとつの素朴な問いにあった。「卑弥呼の墓は、前方後円墳であったのか?」この問いは、3世紀の倭国における政治的・宗教的変動を背景に、古墳という“かたち”にどのような意味が付与されていったのかを考察する契機となった。これは、邪馬台国の所在地論争とも深く関わる、倭国史の基点を問う問いである。魏志倭人伝の記述に見える「大いなる墓」と、「前方後円墳」という日本独自の墳墓形式を重ね合わせる解釈は、これまでたびたびなされてきた。しかし考古学的には、前方後円墳の成立は3世紀後半以降とされ、卑弥呼の死(248年頃)との直接的対応には疑問が残る。

わたしたちは、この「不一致」を起点として、ある仮説にたどり着いた。すでに存在していた方墳や円墳に対し、後から“かたち”を加えることで、支配を表現したのではないかという仮説である。これは従来の「中央計画的墳墓論」のように、最初から完璧な構造として築かれたものではなく、他者の痕跡に“足す”ことで上書きされた構造である。

日本文化には、長く“足す”ことを美徳とする傾向がある。たとえば、神社の遷宮における建物の継承、能や歌舞伎における型の踏襲と加筆、また仏教と神道の習合のように、異なる価値を取り込みつつ重ねていく文化的態度がある。破壊や排除による征服よりも、継ぎ接ぎと重層によって意味を付与し、あたかも元からそうであったかのように見せる構造が、さまざまな場面で確認される。本稿では、前方後円墳をそのような“足し算の構築”として再解釈することで、これまでの墳墓論とは異なる、政治的かつ構造的視点を提示したい。


仮説の概要・考察